■研究1:喫茶の伝播と変遷4-2

喫茶の伝播と変遷:アナトリア・バルカン地域を事例として(2009)
A Comparative Study of Tea and Coffee Cultures: Anatolia and the Balkans as Examples(2009)

第四章:浸透、定着要因と文化、社会への影響

3.社会的要因

 庶民の生活にまで広く定着していった要因として、喫茶のもつ社会インフラとして喫茶の場、時間を考えていく。それは茶やコーヒーを飲むために人々が集まり、そこで親交を深めるだけでなく、情報交換の場ともなるという、「場」という時間や空間も提供できたことが大きいと考えられる。この社会インフラという社会的要因によって喫茶は浸透後も現代まで定着し続け、現在世界各地で広く喫茶の習慣が定着することになったと言える。そして、イギリスのように工業発達とともに増えた労働者階級の安価で手軽なエネルギー源として、紅茶は砂糖を加えて、大量に飲まれるようになり、18世紀終わりには朝食のスタイルも紅茶を取り入れたものに変化(*84)するなど、工業化に伴う社会構造の変化によって茶が定着するということも起きている。

(1) 社会インフラとして

 現在の日本において“お茶”を飲む、もしくは“一服”するという光景は、目覚めの一杯や仕事、勉強、打ち合わせや休憩時間、食後の一杯など生活の多くの場面において見ることができ、カフェ、喫茶店、レストラン、ホテル、自動販売機やコンビニなど様々な場所で時間を問わず茶でもコーヒーでも飲むことができる。
 そして、職場や家庭において“お茶”を出す行為は、来客者へのもてなし、歓待であり、コミュニケーションを円滑にするものであり、商売の交渉をうまく進めることにもつながる。また、友人などと“お茶”を飲みにいくという場合は、人々が家や喫茶店、路肩に集まることになり、それは出会いの場、紐帯を強める場、情報収集の場を形成することになっていた。個人にとっては茶やコーヒーの成分から覚醒作用、集中力の増強、気分転換、リラックス効果などが得られ、自身の空間や時間を形成するとともに、人との緊張関係を和ませる効果もあると言える。
 このことは、人と人との関係を良好にするための様々な要素が喫茶には含まれていることを意味する。それは現代だけでなく、18世紀においても、レットサムが「茶が社交の飲み物として非常に重要であった」(*85)と述べているように、喫茶飲料を通して社交の場を形成することが、喫茶の浸透、定着に重要な要因であったと考えることができる。つまり、飲料の種類は、あまり重要性をもたないことを意味し、それゆえに地域や時代によって安価に購入できる飲料に変遷が進みやすいと考えられる。そして、この喫茶の場は、人とともに情報も集まり、発信される場ともなり、新たな社会の情報インフラともなっていった。このような社会インフラとしての役割が社会的要因としてどのように喫茶の伝播・変遷に影響を与えていったかを国ごとに見ていく。

 イギリスのコーヒーハウスは1650年にオックスフォードにおいてユダヤ人ジェイコブによって作られたのをきっかけとし、街で何軒も営業されるようになった。そこには学生や教授が集まり、自由に議論を交わす場となり、1ペニーのコーヒー代でいつまでもいられるため別名「ペニー大学」(*86)ともいわれていた。そして1652年にはシチリア出身のパスカ・ロゼによってロンドンにコーヒーハウスが作られる(*87)など、イギリス各地に広がっていった。この17世紀という時代、社会の中で新しい中間層を形成しつつあった貿易商人たちは、地球規模で広がりつつある交易網に対応するため、それまでの社会にはない新しいシステムを必要としていた。その欲求に対して「遠隔貿易に関するメディア、郵便制度、株や商品の取引所、保険や銀行、取引拠点となる事務所を提供したのがコーヒーハウス」(*88)であった。そして、「1683年には特定コーヒーハウスという郵便制度と結びつくものも現れ、世界各地の出向や荷物のニュースも集まる」(*89) 場ともなっていた。19世紀に入ってからも、「1849年「エワート報告」ではロンドンには2000軒のコーヒーハウスがあり、そのうち500には図書館があり、労働者も読書にふけっている」(*90)というように、情報インフラとしての役割を果たしていた。
 フランスにおけるコーヒーハウスは、18世紀には現実の諸問題を取り上げてその解決を論じ合う場となっていた。18世紀後半になるとパリではデュ・デファ夫人やジョフラン夫人などが主宰するサロンという場も形成され、宮廷政治の仕組みが確立していく中で、宮廷という徹底して儀礼化された公的な場とは異なる私的な空間となり、意見交換、芸術、文学が披露された(*91)。このサロンを女性が主宰したということは、男性社会であった公的な政治からは切り離された空間だということを、あえて明示するためだったのではないかとも考えられる。
 イタリアにおいては、バールでは立ち飲みでエスプレッソを一気に飲み干し、その間に店主や客と世間話のような情報交換を10分足らずで行うという国もある。しかし、そのようなバールでも小さな町のバスターミナルになっていたり、町の寄り合いどころとなっていたりし、経営が成り立たないような村でも、「村中の人が、ほぼ月に一日ずつの当番制でバールを経営している」(*92) など、人々を結びつける場としての機能をもっている。
 イエメンにおいては、茶やコーヒーとは異なるが、カート茶を嗜む「カート・パーティー」というものがある。それはカートというニシギキ科の常緑高木の生の茎や葉を噛む習慣であり、「噛んでいると人々の気分が落ち着いてくる。すると、その場の人々の間に、「ともに時間を共有している」という、静謐にして不思議な感覚が広がる。このことが、ビジネスを含めて、日常の人間関係を確かなものにする上で多く役割を果たすのである」(*93) とされ、これも人々をつなぐ社会インフラの一例と言える。
 このように、人々にとって喫茶とは茶やコーヒーという喫茶飲料を供するというよりは、人々が集まる理由と場を提供するものであると言える。「人々がなぜコーヒーハウスに出入りしたかの理由はみつからない。16世紀の住民が外出したいと思ったときの理由は、仲間と付き合いたいため。このことはコーヒーの移動販売者が消えていった事実でもある。つまり、コーヒーを楽しむということは主たる要因ではない。コーヒーが本来の原因ではない」(*94)とも言われる。
 そして、このように人々の集まる場は、社会変革の温床ともなるもので、支配者にとっては不穏分子の集まる場とみなされ、イスラーム諸国やヨーロッパにおいて営業に禁令が出されることもあった。つまり、喫茶は人々の生活に密着し、政治や経済、芸術などの活動の場となるだけでなく、国家に対しても政治的、経済的な影響を与える原動力を形成するものであり、人々の日常生活と政治、経済を密接に結びつける社会インフラとしても、歴史的に欠かせない要素であると考えられる。

(2) 社会構造の変化

 喫茶の伝播、変遷に対して、社会構造の変化がどのような影響を与えたかを考えていく。ここでは17、18世紀イギリスの生活革命、商業革命、産業革命という社会構造変革と大衆生活の変化から見ていく。
喫茶が浸透していった17、18世紀の「大航海時代」は、海外の珍しい品が大量にヨーロッパに紹介された時代であり、アメリカ大陸からはジャガイモやトマト、唐辛子などが食生活に入り込み、インド産の綿布によって衣料革命(*95)も起こっていた。そして17世紀には高価であった砂糖が18世紀にはぜいたく品でなくなるなど、生活全体に変革が起こり、生活革命と総称される時代でもあった。
 イギリスにおいて、17世紀後半から18世紀半ばにかけてのいわゆる「イギリス商業革命」による経済覇権が確保され(*96)、それにともなう資本力の増大が産業革命をもたらした。その機械工業を経済の主軸とする構造変化は経済と社会の根本的な変化をともない、大量生産された商品は消費の規模や性格も変化させ、商品を運ぶための流通のあり方、あるいは原料を大量に入手し動かすための仕組みも変化させていった。それは、人間の働き方を機械の動きに対応した一定のリズムを刻む、時計の時間を単位として管理されるものへと変化させていくものであり、労働時間単位の給与体系が一般化し、それにともない日常生活のあり方も大きく変化せざるをえなかった。(*97)その結果として、日常生活も時間に追われ、両親共働きは当たり前となり、家で作っていたパンも外で買うようになり、「聖月曜日」(*98) もなくなるなど、時間の感覚の変化(*99)が人々の生活には起きていたと言える。工場の労働力として女性労働者も増加したが、「現金収入が増えると栄養摂取の水準が低下するというパラドックスも生み出した。それは、主婦に時間的な余裕がなくなったため、安上がりにするとか、栄養の水準を保つとかいった配慮よりは、時間を節約する必要のほうが選択を決めたのである。このようななかで、目立った現象がパンの消費量の増大であった」(*100)とされる。そして、お湯があれば簡単に入れることのできる砂糖入り紅茶も、労働者階級の「ティーブレイク」に欠かせないものとなり、即効性のあるカロリー補給源(*101)となっていた。
 この時間の節約という生活リズムの変化の影響として、「立証すべき材料はないが、(中略)アラビア・コーヒーのいれ方はあまりにも手間隙がかかりすぎ、儀礼的な側面が強すぎる。近代的生活様式というものは生活のテンポが速く、時間をかけてコーヒーをたてるようなことを許さないのである」(*102) 。また、「貧しい人々は、温かい茶を飲むと何かあたたまるような錯覚を抱くことができたのだ。本当は、グラス一杯分の冷たいビールのほうが、はるかに実質的な食品だったはずなのだが」(*103)とも言われる。砂糖入りの紅茶を飲むことで温かさを感じ、節約にもなるために人々に飲まれていったと考えられる。
 イギリスのようなコーヒーから紅茶への転換、浸透がフランスやドイツで起こらなかった原因を考えた場合、「産業・貿易構造の違いのみならず、社会階級のありようの差、それに起因する奢侈や余暇時間に対する考え方の相違などが浮かび上がってくる」(*104)。それは政治や経済による社会構造が複合的に関連して喫茶の飲料が決定されるということを意味する。また、19世紀の現象として「1820年~30年代と1870年代がスピリッツとビールの一人当たりの消費量が最大」(*105)となっているが、それはアルコールでコーヒーや紅茶では解消されない労働のストレスを発散させるようになったためと考えられる。
 このような17世紀以降の社会の変革の時代のなかで形成された喫茶であったが、19世紀に入り、コーヒーハウスも閉鎖的なクラブへと移行していく。「19世紀にはイギリス人の嗜好が珈琲から紅茶に移り、上流階級はクラブ、労働者はパブを愛好し、コーヒーハウスはみられなくなっていった」(*106)。このことは、コーヒーハウスにだけ言えることではなく、酒場にも同じことが言え、「万人に共通していた飲酒の習慣が、分裂してきた(中略)酒場の分化の背景には18世紀に激化しつつあった階級的対立が隠されている」(*107)と言われるように、社会のあらゆる面において大きく構造の変化が起こっていた。
 これらのことからも、商工業の発展にともなう社会構造や生活習慣の変化が、生活に密着した喫茶に大きな影響を与えることになることが分かる。その一方で、「この種の食生活の転換が、より根本的なイギリス社会の変化を積極的に可能にした」(*108) ことも忘れてはいけない。そして、この社会構造の根底からの変化は、政治、経済的な要因や技術的要因などの複合的な原因があり、喫茶はその変化に合わせ、また人々の生活に合わせて変遷していくことになった。つまり、イギリスにおけるコーヒーハウスの衰退の原因は、需要や供給の問題というよりも、産業革命の進行にともなう社会構造の変化に求めることができると考えられる。

(3) アルコール飲料との競合

 喫茶の特性の一つとして、社交の場を形成し、コミュニケーションを円滑にすることをあげたが、この特性は人々の社会生活において古代から「酒場」が同様の役割を果たしてきたと考えられる。しかし、酒場が提供するアルコールは人々を酩酊させるものであり、茶やコーヒーの覚醒作用とは全く逆の効果を生むものであった。
 たとえば、イギリスにおいてコーヒーハウスが17世紀に広がった理由のひとつとして、ピューリタン革命によってアルコールが否定されたことで、覚醒作用のあるコーヒーが推奨されたことがあげられる。しかし、先に挙げた社会構造の変化に伴う、労働者階級の仕事へのストレスの発散には茶やコーヒーは効果がなく、安いジンが大量に飲まれるようになり、大人から子どもまで酒におぼれるような社会問題となっていった。ウィリアム・ホガーズはこの当時を風刺した「ジン・レイン」(参考6左)や「ビア・ストリート」(参考6右)を描いた。これは、ホガーズがオランダから1689年に入ってきたジンではなく、古きよきイギリスの飲み物であるビールを推奨(*109)するためであった。しかし、ビールがジンになったためにこのような社会問題が起きたのではなく、社会構造の根本的な問題が労働者たちをジンに走らせたのであり、ビールに戻したところで労働者の生活は何も変わらなかったと考えられる。
 しかし、「19世紀に入るとジンの害への警告。禁酒運動が盛ん」(*110)になるなど、徐々に社会の建て直しが行われるようになった。アメリカにおいても、「1919年アメリカのアルコール禁止とともに、コーヒーの消費量が増大し、アメリカコーヒーブーム」(*111) がおきている。このことは、禁酒によって、茶やコーヒーなど非アルコール飲料を飲む量が増大することも示しているといえる。


(4) 社会不安の影響 -17~18世紀のヨーロッパにおける寒冷化との関連-

 喫茶の浸透、定着に、自然環境がどのように影響したかを17~18世紀ヨーロッパにおける寒冷化から考えていく。17~18世紀のヨーロッパは小氷期とよばれ、1684年にはロンドンのテムズ川は凍結し、川には屋台が立ち並んでいた。1708年、1709年にかけての冬は西ヨーロッパの大半で厳しい寒さとなり、北海が凍り、人々はデンマークからスウェーデンまで氷の上を歩いて渡ったほどであった。1716年にもテムズ川が凍ったが、1730年以降になると暖冬が8年連続でやってきた(*112)と言われる。このように寒暖の変動幅が大きかった時代であり、ヨーロッパでは凶作となる年も多かった。17世紀前半には「ぶどうの不作も続き、欧州の森林破壊が拡大し、イギリスでは90%、ドイツでは70%、スイスでも90%が破壊された」(*113) とされる。
 このような気候の下で、ペストなどの伝染病がヨーロッパに流行し、1596年~1602年スペイン北西部では50万人が死亡したといわれ、1648年~52年、1677年~85年にもスペインで発生(*114)している。イタリア半島北部においても1630年、1656年にはジェノヴァ、ローマ、ナポリをペストが襲う(*115)など、ヨーロッパ各地で人口が大幅に減少した。
 この社会混乱と不安は「伝染病など人々の恐怖のはけ口」(*116)ともなる魔女狩りを生んだ。そして「英国1566~1684年の間に1000人が、スコットランドでは1590~1680年の間に4000人以上が魔女として処刑」(*117)された。「イギリスの魔女狩り令はエリザベス時代と、その後のジェームズ6世で強化」(*118)もされたという。この魔女裁判の最後の年は「不確定的だがイングランド1717年、スコットランド1722年、フランス1745年、ドイツ1775年、スペイン1781年、スイス1782年、ポーランド1793年」(*119)というようになっている。その後18世紀には入っても小氷期が続いていたが、1740年代には、ペストのような伝染病は、西ヨーロッパでは主な死因ではなくなっていた。しかし、食糧不足の年に死亡率が高いのは、主に栄養不良から免疫性が弱くなったためか、人口過密による伝染病のせいでもあった。1740年代にはまともな暖房施設もなく偶発的低体温症の犠牲になり、新聞には「厳しい寒さ」を死因とする死亡記事が多く掲載(*120)された。
 そして「ヨーロッパの病気との遭遇が、様々に変遷してゆく局面と、ヨーロッパの文化的・政治的歴史の各段階の間には、明らかな相関関係が存在するように思われる。1492年から1648年まで、ヨーロッパ人は、人間、商品、思想および病気の、大洋を越える移動が一気に開始されたことの衝撃に適応しなければならなかったから、古い文化的伝統が蒙った圧迫は特に烈しかった。」(*121)社会不安の克服のために技術革新、石炭利用なども行われた。喫茶も、寒冷な気候と飢餓には身体を温め、空腹を紛らわすものとなり、伝染病に対する「万能薬」として、コーヒーや茶が人々の生活に浸透していくことになったとも考えられる。この薬としての意味付けについては次の政治、経済的要因において宣伝広告との関係からみていく。


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【引用・参考】
(*83)秋野晃司、小幡壮 2000年, p.26
(*84)ジョン・コークレイ・レットサム 2002, p.133
(*85)同上, p.207
(*86)ベネット・アラン・ワインバーグ/ボニー・K・ビーラー 2006, p.511
(*87)臼井隆一郎 1992,p.58
(*88)井野瀬美恵 2007, p.178
(*89)臼井隆一郎 1992,p.61
(*90)小林章夫 2000, p.259
(*91)福井憲彦 2008, p.117
(*92)島村菜津 2007, p.31
(*93)高田公理 2004, pp.5-7
(*94)ラルフ・S・ハトックス 1993, p.130
(*95)川勝平太 1991, p.124
(*96)福井憲彦 2008, p.184
(*97)同上, p.186
(*98)川北稔 1996, p.164
(*99)同上, p.164
(*100)シドニー・W・ミンツ 1988, p.245
(*101)川北稔 1996, p.172
(*102)石毛直道 2009, p.282
(*103)シドニー・W・ミンツ 1988, p.226
(*104)高田公理 2008, p.133
(*105)角山栄 1984, p.177
(*106)湯浅赳男 2000, p.167
(*107)海野弘 2009,p.82
(*108)シドニー・W・ミンツ 1988, p.57
(*109)海野弘 2009,p.84
(*110)同上,p.98
(*111)臼井隆一郎 1992,p.212
(*112)ブライアン・フェイガン 2009, pp.242-249
(*113)安田喜憲 2006, p.53
(*114)ウィリアム・H・マクニール 2007, p.40
(*115)フェルナン・ブロ-デル 2004, p.100
(*116)安田喜憲 2004, p.295
(*117)同上, p.296
(*118)森島恒雄 1970, p.182
(*119)森島恒雄 1970, p.201
(*120)ブライアン・フェイガン 2009, p.255
(*121)ウィリアム・H・マクニール 2007, p.165


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