■研究1:喫茶の伝播と変遷3-3

喫茶の伝播と変遷:アナトリア・バルカン地域を事例として(2009)
A Comparative Study of Tea and Coffee Cultures: Anatolia and the Balkans as Examples(2009)


第三章:原産地周辺と伝播概略

3.茶とコーヒーの伝播経路

◆茶 -発音の点から-

 現在、世界で飲まれている茶ではあるが、その呼び方には大きく分けて「チャ」と「テ」の二つの系統がある。これは、16世紀以降、世界各地へ広がっていく際に、中国の茶を取り扱っていた商人が広東系の場合は「チャ」、福建系の場合は「テ」と発音していたことが関係していると考えられる。
 そのため、茶の発音の分布を調べることで、ある程度の伝播経路についての予測は可能だと考えられる。しかし、イギリスにおいても、ポルトガルの王女キャサリンがチャールズ2世に嫁いだ1662年時点ではポルトガルの「チャ」であったと考えられるが、現在では「テ」となっているように、はじめに茶が伝わった時のものとは異なっている場合もある。そして日本のように「チャ」は緑茶など、「ティー」は紅茶のみというように発音によって茶の種類を区別している場合もある。また、モロッコでは同じ紅茶でも「チャ」系統に入るアラビア語の「シャイ(shay)」と、現地語の「アッツァイ」の両方が使われ、ポーランドではスラブ語経由の「チャ(cha)」とラテン語系の「ヘルバータ(herbata)」が紅茶である。このように多くの民族が暮らす国ではその民族の母語の語彙を使用する場合や、また社会階層によっても発音、語彙が違う場合がある。このような点からも、現代における「チャ」と「テ」の発音の分布だけなく、時代をさかのぼって、発音を検証しなければ、茶の伝播経路を確定することは困難だと考えられる。
 発音の変遷の検証や階級差については、今後の研究課題とし、ここでは、現代における茶の発音の分布を一覧にし、伝播路の目安とするに止める。


◆茶とコーヒーの伝播の推測経路と喫茶の状況

前述の現代における茶の発音一覧とコーヒーのいれ方を踏まえて、茶とコーヒーの伝播路を図2としてまとめておく。また、コーヒーはヨーロッパの植民地主義とともに世界各地にプランテーションが作られていることから、その年表を参考5としてまとめておく。
図 2 茶とコーヒーの伝播の推測経路

【東アジア】中国、朝鮮、日本

茶:(複数) 唐の時代には喫茶の文化が浸透しており、「茶聖」と称される陸羽(733~804年)によって『茶経』(760年ごろ)も書かれている。唐以前は中国において「茶」の字は統一的には使われておらず、薬の意味の「荼」などが使われていた。
朝鮮半島では7世紀新羅の時代にはすでに伝わっていたようである。 日本には7、8世紀頃には入ってきており、13世紀には庶民の生活にまで定着したと考えられ、字も「茶(チャ)」が使われていた。
コーヒー: 日本におけるコーヒーは18世紀末には長崎にきていた。
「万国管窺」(志摩忠雄)1760~1806の記述にもある (*56)

【中央アジア】チベット

茶:(チャ) アムール川流域、ハバロフスクなど、19世紀から1920年代ぐらいまでは中国の影響下にあり、中国的だった(あるいはモンゴルとも近い)。お茶にはモンゴルの磚茶が使われていた。1930年代を境にほとんどロシア化される。当時のソ連政府が政策的、強制的に中国風の生活文化を潰してしまったため現在ではお茶の飲み方もロシア風となっている。(*57)

【東ヨーロッパ】ロシア

茶:(チャ) 中国からシベリア、中央アジア経由で伝わり「チャ」と発音していた。
1618年にモスクワの宮廷に中国の使節団が茶をもたらしたのが、ロシアへの茶の導入の最初の記録。当初は浸透しなかったが、1689年のネルチンスク条約以来、陸路、茶が輸入される比重が増え、18世紀になると中国からの茶の輸入量の増大とともに、ロシア人の間で茶が一般的な飲み物となった。当時の茶葉は緑茶系茶葉と磚茶であったであろうと推定される。1814年にはクリミア半島において茶の栽培が試みられたが失敗。1847年にグルジアで茶園経営に成功、その後アゼルバイジャンでも生産開始。(*58)

【南アジア・中近東】ペルシア、インド、東地中海イスラーム圏

茶:(チャ)
コーヒー:
 「1633-40年ドイツ人旅行家、Mandelsoは「毎日会見の際には、全員インド圏諸国で一般的な飲料とされ、オランダと英国では薬品とされているthe(茶)を飲んだ。ペルシア人はtheのかわりにkahwaを飲むとされる。(中略)1638年、ペルシア王の宮廷において茶を供されたが、それは「水に苦味が煎じ出され、黒色になるまで煮出したものに、ウイキョウ、アニスシードまたはシナモンと砂糖を加える」と述べている」(*59)ということから、17世紀にはすでにペルシアやインドにおいて茶は知られていたと考えられ、イスラーム交易路にそってペルシアから西のイスラーム圏にもすでに東洋の珍しい品として存在は伝わっていたと思われる。そのため、イギリス植民下インドで一般大衆に広まった茶の発音はイギリス風の「ティー」ではなく「チャイ」であったと考えられる。
 またインドの場合は隣国で原産地でもあるミャンマーやチベット経由での茶の浸透があった可能性もあるが、「1406年鄭和の使節団はベンガル人が茶の代わりにビンロウを客に勧めることを知って驚いている」(*60)とあることからも、15世紀前半の段階では茶はインドでは知られていなかったと思われる。ただこの中国との接触により茶の存在はインドに伝わっているとは思われるが、その後は不明である。
 そして、1638年にはデリーのチャンドニ・チョークにコーヒーハウスがあり、ペルシアからの新しい習慣として伝わり、アミールが集まり詩を聞いたり、談話したり、往来を眺めたりしていたと言われる。
コーヒーのいれ方: コーヒーハウスにはコーヒーを入れる大なべがあった。17世紀にはイブリックがあった。コーヒーの入れ方。イブリックに水を入れて沸騰させ、その後引いたコーヒーを入れる。また沸騰してきたら火から離す。これを10~20回繰り返す。(*61)

【東南アジア】ラオス、ベトナム

茶:(複数) ラオスやタイ北部、ミャンマーは茶の原産地。
飲むだけではなく食べる。タイ北部のミエン、ミャンマーのラペソなど
コーヒー: ラオスはベトナムなどとともに長く仏領インドシナとしてフランス文化の影響下にあったことによる。また、細長いフランスパンとコーヒーを売る屋台もある。(*62)
コーヒーのいれ方: ネルや金属のフィルターを使う。

【ヨーロッパ】

茶:(チャ、テ) 16世紀以降、ポルトガルやオランダによって中国や日本から茶が輸入されるようになり、イギリスも加わった17世紀以降にヨーロッパでの消費が増加した。
輸入した国と取引のあった中国の地域の発音をそのまま使用しているので、「チャ」と「テ」にヨーロッパ内で分かれている。
コーヒー: 1600年、教皇クレメンス8世によってコーヒーが容認されていることから、1600年以前にヨーロッパにはコーヒーが入り込んでいたと思われる。
コーヒーのいれ方: フランスのカフェオレについて:
コーヒーが人間の心身にとても悪いらしいという風説。牛乳はそれを相殺する。1685年高名な医者モナンがそのコツとして「鉢一杯の良質な牛乳を火に掛け、軽く煮立ち始めたら大匙一杯のコーヒー粉末と大匙一杯の赤砂糖を加えてしばらく放置する。煮こぼしてはいけない。(*63)
このように17世紀には、フランスでもまだコーヒーの粉を煮出していたと考えられる。


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【引用・参考】
(*55)金明培1983, p.33
(*56)小林章夫 2000, p.19
(*57)高田公理 2004, p.219
(*58)石毛直道 2009, p.249
(*59)同上, p.251
(*60)リジー・コリンガム 2006, p.245
(*61)ラルフ・S・ハトックス 1993, p.123
(*62)高田公理 2004, p.50
(*63)臼井隆一郎 1992,p.104