■研究1:喫茶の伝播と変遷3-2

喫茶の伝播と変遷:アナトリア・バルカン地域を事例として(2009)
A Comparative Study of Tea and Coffee Cultures: Anatolia and the Balkans as Examples(2009)


第三章:原産地周辺と伝播概略

(1) コーヒーの原産地周辺域への浸透

 コーヒーの原産地エチオピアでは、コーヒーの実は「ブン」(*39)と呼ばれており、15世紀ごろから飲料として飲まれていたと考えられる。
現在でも「エチオピア西南部の高地部では毎朝の葉のコーヒー、あるいはコーヒーの葉スープがよく飲まれる。コーヒーの葉を庭から摘み、葉を潰し、塩やねぎ、ニンニク、しょうがをいれ、さらにカルダモン、ハッカなどを入れて煮出す。原産地エチオピアで、日常的に飲まれているのは、焙煎した黒いコーヒーではなく、緑色をした葉のコーヒーなのである」(*40)。また、紅海対岸のイエメンにおいても、早い段階でコーヒー栽培が開始されていた。そこでは現在でもコーヒー豆の外皮を乾燥させたものを煎じてショウガの粉と砂糖を解かして飲む「ギジル」と呼ばれる飲物が、紅茶ほどではないがイエメン庶民の日常的な飲物として愛飲されている(*41)。
現在では世界各地に浸透したコーヒーであるが、伝説として15世紀前半のモカの聖者アリー・イブン・ウマルと結びつけられる。この伝説では、コーヒーには「ザム・ザムの聖水と同じ力が宿っている」(*42)とされ、飲むことで当時流行していた伝染病が治ったという。しかし、実際には15世紀ごろにスーフィーに所属する、俗世で暮らす人々に飲まれるようになったことからのようである。その後、1500年ごろには交易路にそってマムルーク朝下のメッカやカイロなどのアラブの中心都市に広がり、「カイロではアズハル神学部のイエメン人宿舎で飲まれ始めた」(*43)とされ、「モスクで飲まれていたコーヒーが庶民に広まりモスクの周りにカフェができ始めていた」(*44)と言われる。
 このように初期のコーヒーは宗教とともに広がっていったが、スーフィーのコーヒーを用いた儀式は宗教的、社会的に見て重要だが、コーヒーハウスの発展とは別のものである。(*45)コーヒーハウスはコーヒーを楽しむ場から交友を温める場、社交の場として捉えられ、日常生活に定着したことが一番大きな浸透、定着要因だと言える。
 この初期の段階の飲み方は、「コーヒーハウスにはコーヒーを入れる大なべがあった」(*46)といわれていることからも、現在のアラブ式のコーヒーと同様に、炒ったコーヒー豆を細かく挽いて、鍋で煮だして、その上澄みを飲んでいたと考えられる。そして、17世紀にはイブリックがすでにあり、「イブリックに水を入れて沸騰させ、その後挽いたコーヒーをいれ、沸騰してきたら火から離す。これを10~20回繰り返す」(*47)というやり方であった。コーヒーに砂糖を入れて飲むことは、「17世紀前半のカイロの町で始まったことのようである」(*48)が、砂糖が使われることはまれであった。カルダモンは当時も入れていたようであるが、ミルクは健康によくないと考えられ、ほとんど使われていなかった。
 イスラーム圏の都市部において徐々にコーヒーハウスが定着していったことで、供給地の確保が必要となり、年代は定かでないが、原産地エチオピアの町ハラール(*49)東部近郊でアラブ人によってコーヒーの木の栽培が始まった。そして、紅海対岸のイエメンにおいても栽培されるようになったという。その後、イエメンの港町モカはエチオピアやイエメンのコーヒーを集積し、積出すための港町として繁栄し、そのコーヒーはモカ・コーヒーと呼ばれるようになった。

 コーヒーは16世紀までにはアラブの都市部へ浸透していったようであり、1511年には初めてと言われるコーヒーの禁令がメッカにおいて出されている。この禁令は市場監察官であり、町の長官でもあったハイール・ベイ(*50)によって出された。その理由として、人々が集まり「酒場を思わせる建物で、アルコールらしきものを飲む」(*51)ことが上げられた。この禁令はマムルーク朝によって撤回されることとなったが、その後も禁令が出され、また撤回するというような状態が続くことになる。こうしたことから、16世紀のはじめの段階ではコーヒーを飲む行為と、提供する場が都市部に存在し、社会問題となるまでに定着していたことが分かる。
 そして、コーヒーとコーヒーハウスはイスラームの交易路にそって地中海世界およびインドやペルシアなどインド洋沿岸諸国にも広がり、オスマン帝国のヨーロッパへの影響力の増大とともに、ヨーロッパ内陸の各都市へも浸透していくことになった。オランダには1663年にはモカ港からコーヒーが定期的に輸入されていたが、オランダはそれ以前に本格的にコーヒー交易に参加していた。それもオランダへ送るためではなく、イスラーム圏の他の地域への輸出に活躍していたのである。1602年に設立されたオランダ東インド会社はすでに1642年32,000kgのコーヒーをインドのカルカッタに搬入する(*52)など、インド洋航路のコーヒーの運搬にも17世紀にはヨーロッパ諸国が関わっていたことが分かる。

2.世界的飲料となった時代背景

 このように地域的な習慣であった茶やコーヒーを飲む喫茶の習慣がヨーロッパにまで知られるようになった16、17世紀は、地中海世界においては、オスマン帝国が15世紀半ばにイスタンブルを都とし、アラブイスラーム圏やバルカンの支配、ウィーン包囲やフランスとの同盟など影響力を増しつつある時代であった。
 アジアにおいては、シルクロードだけでなく、中国南海航路、インド洋、地中海などを通して東西交易や交流が盛んに行われていた。インド洋交易圏ではインド・イスラームによる中近東から東南アジアを結ぶ三角貿易が行われ、木綿、絹織物や、胡椒、クローブなどの香辛料の交易だけでなく、サトウキビやバナナなどの植物の移植、製紙技術や航海技術など、技術面での交流が進んでいた。15世紀前半には中国の明によっても南海遠征が行われており、アフリカ東岸まで到達するなど東アジアにおいても大規模な航海が行われていた。
 そしてヨーロッパにおいてはキリスト教圏の人々によるレコンキスタ完了し、アメリカ大陸への到達、アフリカ喜望峰周りの航路の開拓など、貿易の比重が地中海から大西洋へと移る「大航海時代」の始まりであった。この16世紀頃のヨーロッパ諸国の武力を伴う中近東、インド、東南アジア、東アジア、アメリカ大陸への進出は、ヨーロッパとアフリカ、アジア、アメリカ地域を直接結びつけ、地球規模に交易が拡大する緒となった。
ヨーロッパ諸国のアジア交易圏への進出や「新大陸」との接触によって、「旧大陸」にはなかった、トマトやジャガイモ、トウモロコシ、唐辛子、砂糖などの食料品や、中国の茶や紅海沿岸域のコーヒー、「新大陸」のココア、タバコなどの嗜好品、そして陶磁器などの生活用品、製造技術など多種多様なものが世界各地に伝播することになった。そして、次第に各地の既存の文化に取り込まれ、融合しつつ、人々の生活に定着し、現代においては独自の習慣や文化とされるものも多い。

 喫茶文化については、16世紀には日本では茶道が形成されつつあり、17世紀までにはオスマン帝国圏においてもカーヴェやカウファと呼ばれるコーヒーハウスが作られた。隣国ペルシアにおいてもコーヒーハウスが存在した。17世紀以降にはヨーロッパにおいても茶やコーヒーを飲む喫茶の習慣が浸透し、イギリスではコーヒーハウスやティーハウスなどが形成されるとともに、アフタヌーン・ティーやハイ・ティーなどの喫茶文化が形成されていった。
また、飲み方やいれ方にも様々なものが生まれ、中近東周辺などでみられるコーヒーを煮出すアラブ式のコーヒー(アラビック・コーヒーやトルコ・コーヒーとも言われる)や、ヨーロッパ式としてフィルターなどを利用し、コーヒーの液体のみを抽出する方法が生まれた。そしてミルクや砂糖を加えた緑茶や紅茶、東アジアの抹茶に煎茶、工夫茶、インドなどの南アジアの紅茶をミルクで煮出してスパイスを加えたチャイがあり、チベット、モンゴルなどの遊牧民の栄養源となる生活必需品バター茶、南米のコカ茶(栄養源であり空腹感を満たす)やマテ茶(飲むサラダとも言われる栄養源)など喫茶飲料も多様であった。このように世界各地において多種多様な喫茶の習慣や文化が生まれ、定着していく中、物質文化としての茶器も中国や日本の陶磁器がヨーロッパへ伝わったことで、ヨーロッパにおける陶磁器産業の興隆とともに独自の茶器がうまれることにもなった。
このように現在見られる多種多様な喫茶の習慣や文化は、過去から現在にかけての歴史の流れのなかで形成されてきたものであるため、現代の国境と一致するものではない。ヒマラヤ以南のチャイ、インダス川以東のチャイ、そしてバルカン半島へ入るとアラブ式コーヒーが日常的に飲まれているなど、喫茶は周辺地域との類縁性をもつとともに、様々な要因の影響のもとで多様に形成されてきた習慣や文化と言える。

 この喫茶の習慣や文化はあまりにも身近にあるため、茶やコーヒーを飲むことについて日常的に深く考えることはない言える。しかし、喫茶は、茶やコーヒーという商品が輸入に頼ることが多いことから政治的、経済的な要因によって決定付けられるものである。例えば、18世紀のイギリスのコーヒーから紅茶への変化や、20世紀初頭のインドにおけるチャイ(紅茶)の浸透、また、1960年代以降においてもトルコ共和国で国内経済の悪化から輸入に頼っていたコーヒーに代わり、国家政策として国内生産が始まった紅茶が急激に普及、浸透し、現在では多くのトルコの人々にとって昔からの習慣として定着したことなどが想起される。
 ドイツにおいても、コーヒーはフランスやオランダからの輸入に頼るしかなかったために、政治的、経済的な影響を大きく受けることになる。ドイツ人にとって「コーヒー」には嗜好品以上の意味が付加された。「ドイツ人はコーヒーを飲むことで、西側諸国の人々の粋な暮らしぶりの一端を学び取ろうとした」(*53)と言われるように「コーヒー」は「先進文化」へのあこがれとなった。そこには「西側諸国の文明を象徴する特定の形式を模倣することで、自分が事実上除外されている世界の潮流から取り残されまいとする、ドイツ人の習性(*54)を見ることができる。また、19世紀以降のバルカン諸国においてはナショナリズムの高揚とともに、トルコ・コーヒーがギリシアではギリシア・コーヒーと呼ばれるようになったと考えられ、国民飲料として喧伝されるなど、嗜好品にナショナル・アイデンティティが表象されることもあった。


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【引用・参考】
(*39)ベネット・アラン・ワインバーグ/ボニー・K・ビーラー 2006, p.36
(*40)高田公理 2004, p.119
(*41)同上, p.144
(*42)臼井隆一郎 1992,p.7
(*43)ラルフ・S・ハトックス 1993, p.39
(*44)増淵宗一 1999, p.46
(*45)ラルフ・S・ハトックス 1993, p.108
(*46)同上, p.123
(*47)ラルフ・S・ハトックス 1993, p.123
(*48)石毛直道 2009, p.261
(*49)アントニー・ワイルド 2004, p.80
(*50)同上, p.59
(*51)同上, p.59
(*52)臼井隆一郎 1992,p.51
(*53)W・シヴェルブッシュ 1988, p.76
(*54)同上, p.77