■研究1:喫茶の伝播と変遷4-1

喫茶の伝播と変遷:アナトリア・バルカン地域を事例として(2009)
A Comparative Study of Tea and Coffee Cultures: Anatolia and the Balkans as Examples(2009)


第四章:浸透、定着要因と文化、社会への影響

 喫茶が他の地域へ伝播し、その地において既存文化や他の文化と融合しながら変遷する際に、生理、宗教、社会、政治、経済、技術などの要因がどのような影響を与えたかについて、イスラーム圏やヨーロッパ圏の事例とともにみていく。事例と要因の関連性を検証していくことで、世界各地に喫茶が浸透し、定着した要因や、現在の喫茶の多様さを形成することになった要因を捉えることになると考えられる。ここでは、要因を生理、宗教、社会、政治、経済に分類し、それぞれの要因が喫茶の浸透や定着に影響を与えたかだけでなく、どのように喫茶の構造を転換していったのかをみていく。

1.生理的要因

 喫茶の飲料が浸透、定着するには、「水の問題、食事との関連、以前から存在していた類似の飲物との関連など、様々な要因が挙げられるが、飲物自身の備えている性格も大いに作用している」(*64)と考えられる。「飲物自身の性格」とは茶やコーヒーの成分が人間に与える効能のことであり、カフェインのもつ人体に与える覚醒作用などは、現在では科学的に解明され広く知られた効能のひとつである。喫茶飲料はその効能と香りによって、人間関係を円滑にする潤滑油のようになり、社交の場を形成する社会的な要因との関連性も大きいといえ、喫茶の習慣は、複合的な要因で浸透していったと言える。そこでまず、茶とコーヒーの成分が人体に与える効能についてみていく。
 茶は、その発酵度合いによって緑茶や紅茶など様々な種類が作られている。その茶は神農が解毒作用のある薬草として茶を人間に伝え、8世紀の唐代の陸羽の『茶経』や13世紀初頭の日本の栄西の『喫茶養生記』の冒頭に「茶は養生の仙薬、延命の妙術なり」(*65)とあり、「茶煎飲令人不眠(茶を煎じて飲めば、人をして眠むらざらしむ)」(*66)とも述べられるように、茶は覚醒作用などの効能と結びつけられてきた。
 現代では茶に含まれる成分は覚醒作用のあるカフェイン以外にもタンニン(カテキン類)、テアニン、ビタミンCなどが、人間の身体に影響を与える成分が多くあることが確認されている。神農の茶の解毒作用についても「毒草の毒はアルカロイド系の物資が多い。茶に含まれるタンニンはアルカロイドと結合して、これを無毒にする可能性がある」(*67)といえ、現在の知識からも納得のゆく効能ではあるとされる。覚醒作用はカフェインやテオブロミンの効能ということが分かっている。また、ビタミンCに関しては、緑茶に含まれ、壊血病予防ということで日本茶の輸出の際の効能として宣伝にも使われたものでもあった。そこには、「蒙古などの遊牧民族が茶を煉瓦状に固めた磚茶を所持し、削って飲用していたのは壊血病の予防のためという説」(*68)もあげられている。その他にも茶にはポリフェノール、うまみ成分としてのアミノ酸、カロチン、ビタミンA、Bなど多くの成分が発見されている。
 コーヒーについても、「カルディの山羊の伝説」(*69)のようにカフェインによる覚醒作用、ナルコチックス(向精神剤)の面から、スーフィーの夜通しの修行に利用されることにもなったとされる。カフェインは、1819年に文豪ゲーテがアラビア・モカのコーヒー豆を医師ルンゲに分析をすすめたことで発見された(*70)。そして、カフェインは茶の「テイン」と同一であることが1843年にはジョバによって発見され、茶やコーヒーは人間に同じような刺激や気分を変える効果をもたらすことがわかった。
カフェインなどの茶やコーヒーの効能の成分が、科学的に分析されるのは1800年以降の近代科学の成立によるものであり、成立以前の時代においては、実体験として成分の効能を知り、その効能が喧伝されることで多くの人々の生活に取り入れられていったとも言える。

 カフェインの効能は表4のように分量ごとの含有量にも違いがあり、また、表5のようにいれ方によって抽出される量も変わってくる。そのため、同量を飲んだ場合には含有量は少なくても使う重量の多いコーヒーのほうが多くのカフェインを一度に飲むことになる。しかし、この抽出量や重量についてもそれぞれの国や地域だけでなく、店や個人によってもいれ方が違うため、参考程度の数値と言える。結局のところ、茶やコーヒーの化学的な成分分析が進んだからといって、それだけで人々の消費量が増えるというわけではなく、生理的な効能はその一因に過ぎない。実際に消費量が増える大きな要因としては、供給量の増大とともに消費者に茶やコーヒーの効能を健康面から大きく広告宣伝によって需要を喚起するという、後述の政治・経済的要因で述べる商業的側面が強いといえ、この点では過去も現在も大きな違いはないと言える。

2.宗教的要因

 茶やコーヒーが原産地周辺で人々の生活に取り入れられていく初期の段階では、前章の喫茶の伝播経路でも述べたように茶は仏教、コーヒーはイスラームのスーフィズムというように、宗教との結びつきが浸透要因になったと言える。さらに広域や他の地域に浸透、定着する際にも宗教権威による公認や推奨は大きな意味をもっていた。一方、朝鮮のように儒教国となり、崇儒廃仏の影響から喫茶の習慣はしだいに廃れていった(*71)と言われるように、仏教が排斥された際に茶を飲むことも否定されてしまった場合もある。このような宗教との密接な関連から喫茶の伝播と変遷についてここでは見ていく。

(1)公認、推奨、否認 -イスラーム圏の事例-

 イスラーム圏において、コーヒーはスーフィズムとともに浸透はし、モスク周辺に作られていたコーヒーハウスは世俗的な学術、芸術の場としてモスクのもつ機能に幾分似た役割も果たすようになっていったようである。そのため、「モスクにおける学問研究や瞑想に部分的に取って代わったと思われたことによりウラマーなどに不敬だ」(*72)と問題視されていく。そして、16世紀前半のファトワー(*73) が正当性を与えたコーヒーハウスに対する暴動など、イスラームやその統治者による禁令や弾圧が何度も起きることになる。しかし、それは実際にはコーヒーがハラール(halal)かどうかという点ではなく、コーヒーハウスという人々が集まる場に対してであった。
その後、1550年スレイマン大帝の御典医の出した、鑑定書によってコーヒーは公認されたが、コーヒーハウスの禁令や弾圧はその後も続くことになる。しかし、多くの禁令や暴動は数日で、それぞれ、撤回、終息せざるをえなかったことからも、すでに人々の日常生活に浸透し定着していたことがわかる。
 現代においても「リビアのイスラーム教徒の多くはセヌシ派に属するが、セヌシ派の戒律ではコーヒーの飲用が禁じられたので、リビア人は茶を飲むようになったという説がある」(*74)といわれるように、宗教による公認や否認によって茶やコーヒーが浸透・定着するかどうかが決まる場合もある。

(2) 公認、推奨、否認 -キリスト教圏の事例-

 16世紀、イスラーム圏からコーヒーが伝播した西ヨーロッパのキリスト教圏では、伝播した早い段階で「1600年の教皇クレメンス8世によるコーヒーの容認」(*75)がされたことで、イスラーム圏のように浸透後の宗教家による論争はなくなったと言われる。
そして、イギリスにおけるコーヒーハウスの浸透を例に見てみると、17世紀中ごろのピューリタン革命の影響が大きいと考えられる。それは、コーヒーという、「アラビアからやってきた黒い液体は、アルコールの害毒に対抗できる万能薬、かつ健康促進剤として、その薬用が大いに宣伝され始めた。そして、人間の理性を目覚めさせ、知性の活動を活発化させる、醒めたホットな飲み物であるコーヒーは、飲酒を厳しく糾弾するピューリタンのイデオロギーが待ち望んだ理想の飲み物だった」(*76)ともいわれる。それに応えるように、「初期のコーヒーハウスではアルコール類は出されず」(*77) 、1660年の王政復古後も18世紀になるまでほとんどアルコール類は出されなかったという。
 このイギリスにおけるコーヒーハウスは1650年にオックスフォードにユダヤ人ジェイコブにより作られた(*78)ものが最初だと言われるが、このこともクロムウェルによるピューリタン革命の結果と言える部分がある。それは、ピューリタンがユダヤ人に対して寛容であり、アムステルダムから多くのユダヤ人がイギリスへ移住し、17世紀ロンドンでユダヤ人コロニーが成立し、シティーの始まり(*79)ともなっていることからも考えられる。

 このように、政治的、宗教的な要因によってイギリスにおけるコーヒーハウスは17世紀半ばから急速に増加し、18世紀初頭にはロンドン市内で3000軒(*80)を数えるほどになっていた。しかし、このコーヒーハウスという新しい社交・娯楽空間は、コーヒーだけではなく、茶もココアも飲むことができる場であった。そこで、なぜ「ティーハウス」ではないのかということになるが、「イギリスの時代背景として、ピューリタン革命の名で知られる内乱時代の政治状況と社会道徳とのかかわり。それが結果的に紅茶が国民化する糸口となる」(*81)というように、ピューリタンとコーヒーの結びつきからコーヒーハウスとしていた面が大きいようである。そして1717年になってようやくティーハウスとしてロンドンに「トワイニング」が作られた。
 そして、レットサムは18世紀末に書いた『茶の博物誌』において、「茶は当時のイギリス人全般にとって興味ある話題であったけれど、特にクェーカーをはじめディセンターと呼ばれる非国教徒の人々にとっては切実な関心ごとだった。この人たちは禁欲的な生活をよしとし、特に節酒を訴えて、酒類に変わる飲み物として茶を愛好していたし、茶を扱っている商人も多かったからである」(*82)と述べていることからも、ヨーロッパにおいて茶も宗教と関係をもちながら、定着をしていった面があると考えられる。

(3)禁忌 -ヒンドゥ教と喫茶の道具の関連について-

 ヒンドゥ教には、水や唾液からけがれが転移するという浄不浄の考え方があり、下位カーストから上位カーストへけがれを転移するとされる「水」が、インドの人間関係を考えうるうえで重要な要素ともっている。それは「食器にバナナなどの葉が用いられる理由はいくつかあるが、ひとつにインドにおける「浄・不浄」の概念があげられる。インドでは伝統的に、カーストの異なるものとの共食が避けられ、たとえ同じカーストに属していたとしても、同じ食器は用いないようにする。そのため、使い捨ての葉は、このような慣習に適切な「食器」と言える」(*83) という報告からも分かる。この観念は現在のインドでチャイを飲む際に素焼きの器を利用することにも現れており、チャイを飲み終われば、地面に叩きつけて割ることで再利用されないようにしている。
 このように、インドにおいては他の地域から茶やコーヒーとともに茶道具が入ってきたとしても、すぐに自身の文化に合ったもので代用してしまうということになり、伝播元であるイギリスの紅茶の物質文化とは大きくかけ離れたものとなっている。


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【引用・参考】
(*64)石毛直道 2009, p.277
(*65)栄西2000,p.10
(*66)同上,p.18
(*67)中川到之 2009, p.1
(*68)中川到之 2009, p.164
(*69)ベネット・アラン・ワインバーグ/ボニー・K・ビーラー 2006, p.32
(*70)同上, p.25
(*71)アジア遊学 2006, p.153
(*72)ラルフ・S・ハトックス 1993, p.175
(*73)「ファトワー」とはイスラーム法学者ウラマーによる勧告、意見のこと。法的な強制力はないが、発するウラマーの地位によりその影響力が大きい場合もある。
(*74)石毛直道 2009, p.23(HRAF Files, MR14 Siwans, 5Steindorff:10)
(*75)ベネット・アラン・ワインバーグ 2006, p.127
(*76)井野瀬美恵 2007, p.178
(*77)小林章夫 2000, p.51
(*78)同上, p.27
(*79)湯浅赳男 2000, p.239
(*80)小林章夫 2000, p.44
(*81)井野瀬美恵 2007, p.177
(*82)ジョン・コークレイ・レットサム 2002, p.185
(*83)秋野晃司、小幡壮 2000年, p.26